子曰わく
吾十有五(じゅうゆうご)にして学に志し
三十にして立ち
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳従(したが)う
七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず
口語訳
先生がいわれた
わたしは15歳で学問に志し(志学 しがく)
30になって独立した立場を持ち(而立 じりつ)
40になってあれこれと迷わず(不惑 ふわく)
50になって天命をわきまえ(知名 ちめい)
60になってひとのことばがすなおに聞かれ(耳順 じじゅん)
70になると思うままにふるまって道をはずれないようになった(従心 じゅうしん)
余計な言葉や解説は不要ですね。
アラウンド60になっても未だに迷うことが多い私です(笑)
迷いから解き放たれる日は来るのだろうかと
思わずため息が出てしまいますが
迷うからこそ人生は面白いのだと言えるように
真摯に、前向きに過ごしたいものです。
今年もあと僅かとなりました。
昨日より今日、今日より明日が実りある一日でありますように。
2022.12.22
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りんごの皮
秋から冬にかけて旬を迎えるりんごも今は年中手に入ります。けれどやっぱり冬のりんごは美味ですね。蜜入りりんごなどは絶品です。
そんなりんごを手にして、ふと小学生の頃、りんごの皮を繋いだまま剥くことが出来たら包丁使いは合格と言われたことを思い出しました。くっ、くっ、と包丁が引っかかって、上手くスルスルとは切れないもどかしさを感じた人は少なくないと思います。
いつも家にりんごがある訳でもなく、練習したいのに子供は時間がかかり過ぎて酸化も進むから、なかなか剥く機会が与えてもらえませんでした。それでも何度が皮を剥くうちに、3センチで切れてしまっていた皮も10センチ近くは繋いて剥けるようになります。それも昨日まで3センチだったのが突然10センチに伸びるから喜びもひとしおです。その瞬間は思わずフフンと小鼻が膨らんでしまいそうな感動に包まれました。
りんごの皮剥きはひとりでするものですが、同じ練習でも朗読は多人数ですることも必要だと私は思います。朗読講座に参加する人は、性別も年齢も関係なく同じ立場の学び人です。自分が発音できない音を綺麗に発声する人や、知らない言葉の意味をサラリと教えてくれる人との出会いもあります。何度も何度も声に出すこと・聞くことで自然と練習がひとりでは届かなかった高みに届くようになります。伝える努力、伝わった時の喜び、伝えられる楽しさを実感できるのです。
アクセントや文章の繋がりに苦労した単語や文章も、ある日突然注意されなくなる時が来ます。りんごの皮を剥くように、「あれ?できている・・・」という壁を越えた瞬間です。
その瞬間は人それぞれ、やって来るタイミングは違いますが必ず訪れます。
私はまだりんごの皮を最後まで繋いで剥けたことがありません。お尻のあたりでぶちりと切れてしまうのです。その点、梨は皮も薄いので途中で切れてしまうことなくスルスルと気持ちよく剥けるので、一気に包丁使いの名人になった気分になれます。
惑わされるなかれ(笑)
りんごの皮剥きと朗読は、こんなところも少し似ているように感じます。
りんごの皮剥きに挑戦するように、思わず小鼻を膨らませてしまいそうな感動を、朗読を通して多くの方と体験できることを願っています。
2022.1.22
朗読のコツは日常にあり
私はどこへ行くにも電車を利用します。運転免許証は持っているのですがペーパードライバーで、身分証明書がわりに使用する為に持っているようなものですから、マイナンバーカードも作りましたし、そろそろ返却を考えようかなと思っているところです。
さて、今はまだコロナが怖くて会話をしている人も少ないですが、車両では様々な方の話声が聞こえてきます。
ぼそぼそと小声で話していても、時折声が大きくなって聞こえてくることがあります。
「いや、ほんまぁ?」
「そうなんよ」
一体なにがほんま?で何がそうなのか、とても気になることもあります。
はっと驚いたり説得力を増した受け答えの場合は少し声が大きくなってしまうものなんですね。それは心の底から相手に同調した時に現れる表現なのでしょう。
朗読は、ナレーションの部分と違って会話のシーンでは双方の距離を聴き手が感じ取れるかも大切な要素です。
声を潜めたシーンでは、本当に声を潜めすぎてしまうと聴き手に声が届きません。
では、どんな声を出せば良いのか?潜めた声は決して高くはありませんよね。
また、1階から2階へ声をかける時、後ろから声をかける時、正面から声をかける時、道路を挟んだ向こう側から声をかける時。その声に答える相手はどんな声を出すのかも違います。
この台詞のボリュームがこの大きさなら、ここではどの程度の声量が必要か、声は高い?低い?場所はどこ?雑踏の中なのか静かな場所なのか、座っているのか立っているのか。
大きな声を出す時は勿論ですが、潜んだ声を出す時も意外にお腹に力が入っていることを意識したことはありますか?是非お友達やご家族と過ごされる時間、ほんの少し集中して過ごしてみてください。
日常の中には、聴き手が自然に受け入れられる朗読のヒントがたくさん隠れています。
電車の中では耳をそばだてて盗み聞きしているような、ちょっと悪いことをしている気分も味わいつつ、日頃の生活を過ごしてみてください。
面白い発見があるかもしれませんよ。
2021.11.25
枕草子と春暁
「枕草子」は女性歌人の清少納言が平安中期に綴った随筆で、教科書にも掲載される有名な作品で知られています。その『枕草子』は季節に関する話から始まります。
「春はあけぼの
やうやう白くなりゆく山ぎは
少し明かりて
紫立ちたる雲の細くたなびきたる」
これは春の夜明け、山と空の境目がだんだんと明るくなってくる様が、何とも言えず良い様子であることを描いた一文ですが、四季のある日本では、殊にこの時代は春夏秋冬を描くとき、時間帯に着目した作品は非常に珍しく、春は花・夏はホトトギス・秋は紅葉・冬は雪といったものが多く描かれています。清少納言の多角的な視点と破天荒さが伺える、面白い作品だと捉えることができます。
また、これとは対照的な作品が唐の詩人、孟浩然(もうこうねん)が読んだ漢詩『春暁(しゅんぎょう)』です。
「春眠暁を覚えず」の書き出しで始まる、こちらもとても有名な作品です。
「春眠 暁を覚えず
処処(しょしょ) 啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来 風雨の声
花 落つること 知りぬ 多少ぞ」
春の眠りは気持ち良く、夜が明けるのにも気が付かないという意味ですが、早起きして、だんだんと夜が明けて行く様子を楽しむのか、布団でまどろみながらもうひと眠りするか。
どちらの春も心惹かれるものがあります。(私は今のところ、後者が優勢かも?)
皆さんはどちらに魅力を感じますか?
コンテスト等で課題が決まっている場合は別ですが、自分で朗読作品を選ぶ時は、作品に心がどれだけ寄り添えるかも大切な要素です。 今、なぜ、この作品を朗読したいと思ったのかを自分に問いかけてみると、これまで気付かなかった別の自分を発見できるかもしれませんね。私は今、春に限らず朝寝坊が大好きだということを再認識しています。
2021.05.19
余韻を楽しむ
年末の紅白歌合戦は久しぶりに紅組が大差で勝利を収めました。今回は何年かぶりにテレビの前でゆっくりと音楽に聴き入ることができました。ただ、私が子供の頃と比べて歌謡曲が大きく変わったなと改めて感じる大晦日でもありました。「折れた煙草の吸殻で~、あなたの~嘘がわかるのよ~」とその昔、中条きよしさんが歌っていましたが、子供心に何とも切ない思いがこみ上げてきたのを今も覚えています。
これを今風に置き換えると、「あなたの消した煙草の吸殻・・・その折れ方を見れば、私にはわかるのよ・・・何をイライラしているの?あなたの嘘に気付いているわ」といったところでしょうか?私の作詞の才能の無さはさておき、「あなたの嘘」に行き着くまでにどれだけの言葉が必要なのでしょう。情景や動作があまりにも克明に描かれていて、そこまで必要だろうかと思うほど過剰な説明が入っています。聴き手に想像させる余裕が感じられない曲が増えていると感じるのは私だけでしょうか。
小説にも同じく過剰な説明が多いと感じることが多々あります。古典と比較すると一目瞭然で、源氏物語ではこの台詞が誰のものなのか主語さえわからなくなるほど省かれていて、私などは途中で頭がこんがらがってしまいます。
ちょっと極端な例を挙げましたが、私は音楽も朗読も余韻を楽しみたいと思っています。勿論好みもあるでしょうが、情景が思い描かれて心に染み入る瞬間が何とも心地良いからです。
歌謡曲一曲あたりの時間が大体決まっているように、朗読にも大抵の場合時間に制約があります。全部読めれば良いのですが、やむなくカットする部分が出てきます。ではどこをカットするのか、皆さんも悩んだご経験があるのではないでしょうか。
例えば『彼女ははっと驚いて息をのみ、そしてゆっくりとした口調で「あなただったのね」と言った。』という文章を『彼女ははっと驚いて、《間をとる》「あなただったのね」と言った。』と縮めたとします。適切な間と緩急、声の高低を駆使することで恐怖や悲しみ、喜びや驚き等の彼女の感情を表現することができます。こういうところも朗読の面白みのひとつだと思います。
作品をカットせざるを得ないとき、あらすじだけに囚われると心情や情景を伝えるチャンスを失うことがあります。単に文章を省く作業と捉えるのではなく、行間や余韻を楽しむことを心がけると、これまでとは違った朗読への理解が深まるのかもしれません。
2021.01.05